エピソード紹介集。本に挟んで・・内緒の文通で繋がった想い
古くなったインクの匂い、紙と紙が擦れる音。
時折聞こえる子どもの声と、それを制止する母親の声。 控えめな咳払いや、キーボードのタイピング音すら大きく感じる。
県で一番大きな図書館に勤めはじめ、かれこれ5年が経った。 大好きな本に囲まれ、仕事の日も休みの日も、365日 本に触れられるこの仕事が今でも好きで好きでたまらない。
休日の前の日は職場の図書館でこれでもかという程本を借り、スーパーで一日分の食料を買い込む。
そのため一歩も家の外へ出ることなく休日を終えることも少なくはなく、 そんな私を友達や親戚が心配し、合コンやお見合いを進めてくるのだが、正直言って余計なお世話でしかない。
「はい、では木曜までの貸出です。」
利用者に本を手渡し、染みついた営業スマイルで見送る。手元の時計をみると時刻は午後4時半。
あと30分ほどで閉館の時間だ。周りを見回すと、新書コーナーに若い女性が数人と洋書コーナーに男性がひとり。
あとはガラス一枚挟んだ自習室で、勉強を名目に青春を謳歌する高校生カップルが一組いるのみ。
身を乗り出し、カウンターの整理をしながら閉館時間を待っていると、頭の上で聞きなれた声がした。
「これ、お願いします。あとこっちは貸出で…」
男性の手元には読み古された洋書が2冊と、先週入ったばかりの小説が1冊、それらを綺麗に重ねて差し出された。
「はい、お預かりいたします。少々お待ちください。」
裏表紙のバーコードをスキャンしながら、慣れた手つきで本の表紙に挟まれた小さなメモ用紙を抜き取り、今度は貸出の本の表紙に小さく折りたたんだルーズリーフを挟んだ。
そして何事もなかったかの如く本を整理して、「新作は来週木曜、その他は再来週の木曜返却です。」と、とってつけたような営業スマイルをおまけしつつ手渡した。
彼は駅から15分、誰も通らないような裏の細道を入ったところの奥にある、古本屋のオーナーだ。
アンティークの照明とソファ、天井まで届く高い本棚に積まれたマイナーな洋書。古いインクと店の奥から漂う珈琲の香り、少し埃っぽい店の雰囲気は、知る人ぞ知る名店とでもいうのだろう。
そして定休木曜日、図書館の閉館時間ギリギリにやってきては、借りた本に私への手紙を挟んで寄こすのだ。
周りから見れば不思議な関係かもしれないこの文通は、なんてことない私の一言から始まった。
( あの人、ハーフかな…。)
毎週木曜に必ずやってくる彼は、いつも決まって新作の洋書を借りていく。
女性のように長い黒髪と、その隙間から覗く少しグレーがかった瞳が印象的で、いつしか私は目で追うようになっていた。
「あっ…」
その日彼がカウンターで差し出した本をみた私は、思わず声が出た。
「この作家!私すごく好きなんです。でもあまり日本語訳されてないんですよね…」
普段話さない人間が急にテンションを上げてきたからか、彼は少し驚いたように目を丸くしていた。
その姿を見た私はハッと我に返り、顔を真っ赤にして謝ったのだが、恐る恐る見上げた彼の顔は優しく微笑んでいて、それはもう思わず目を奪われるほどに美しかった。
そして翌週の木曜日、カウンターに持ってきた彼の本には記念すべき一通目の手紙が挟まっていて、その日を境に毎週手紙のやり取りを繰り返している。たしか一通目は本の感想とか、好きな作家についてとか、そんなことだったように思う。
それからもう2年以上、お付き合いを始めた今でもこの習慣をやめない彼。
バレるといけないからと説得しても、「君が退職するまで辞めないよ」とさらりと返されるので、無下にすることもできず律儀に返事を書いている。
( 退職するまでって言ったって、本がない生活なんて考えられないし。)
彼はきっと、この不思議な文通がすきなんだろうな。と、その時はあまり深く考えずにいた。
「これ、返却でお願いします。」
そう言って彼は先週借りた本だけを私に差し出してきた。いつも欠かさず本を借りて帰る彼だから少し不思議に感じつつも、普段通り慣れた手つきで返却処理を進めた。
バーコードを読み取りさっとメモを引き抜くと、一言
『 Look at the spin. 』
英語が苦手な私にも分かるよう、しっかりと書かれた『スピンを探して。』に、急いでページをめくった。
するとそこには、えんじ色のスピンでリボン結びにされた指輪がひとつ。
その時見上げた彼の顔は、初めて会話をしたあの時と変わらない、柔らかで優しい笑顔。
『 返事は聞かなくてもわかる 』とばかりにリボン状のスピンをほどき、指輪を私の薬指にはめ、彼はそれ以上なにも語りはしなかった。
その後私は寿退社し、彼と一緒に店に立っている。
あの時彼が言っていた通り『君が退職するまで』続いた文通も、いまやいい思い出。
そういえば私で止まってしまった文通だけど、これから先の長い人生の中でゆっくりと答えをまとめていこうと思う。